投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

ありのままに知られている

大人になり、また様々な肩書きがつくにつれて、「仮面」をつけて、本当の自分を覆い隠そうとしてしまう弱さが私たちにはあります。もちろん、すべての人が「仮面」を外して言いたい放題・やりたい放題してしまったら、世の中は混乱してしまうでしょう。しかし、「仮面」を着けることが当たり前になってしまううちに、いつの間にか本当の自分の姿を見失ってしまうような気がします。

「とっさの時にその人の本性が表れる」と言われますが、何かの拍子に「仮面」が外れることがあります。

ある方のお見舞いに病室をお訪ねした時のことです。本当に苦しそうにしながらも、その方の口から出て来るのは、親しい人たちを案ずる言葉や「イエス様、感謝です」という感謝の言葉でした。

苦しみの最中にあるときに、人は「仮面」を着けることは出来ません。苦しみの中で語られるその方の言葉に、真実の重みを感じました。

聖書に次のように書かれています。 20160910%e3%81%82%e3%82%8a%e3%81%ae%e3%81%be%e3%81%be%e3%81%ab%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b

わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:11 新共同訳)

「仮面」が外れたとき、私たちはどのような顔をしているでしょうか?私のすべてを「ありのままに」知りながらもなお、私を愛してくださる神様の愛は本当に素晴らしいですね。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※すくすくと育つ稲穂。後ろに見えるのは久慈川教会です(撮影:2016年8月 伊藤穣)。

止まれ

情熱を込めて取り組んでいたものがあったのに、いきなりうまくいかなくなってしまった。

突然降りかかって来る、自分自身や家族の怪我や病気。

怠けているわけではない。むしろ、一生懸命前に進もうとしているのに、不可抗力のトラブルによってこれ以上進むことが出来なくなってしまった…。20160903止まれ

わたしたちの人生には、突然、「止まれ」という標識を突きつけられるようなことが起こります。

詩篇46篇10節(新共同訳聖書では11節)の言葉を、3つの訳で見比べると、同じ言葉にも様々なニュアンスがあることが分かります。

  •  「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(新改訳聖書)
  • 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳聖書)
  • 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(新共同訳聖書)

神様はときに、「やめよ」と言われます。人生の歩みを止められるとき、私たちは自分の「力を捨てる」ことを求められます。それは不本意なことであり、不安なことであり、痛みの伴うことでもあります。しかし、「力を捨IMG_0349て」「静まる」ときに、はじめて神を知ることが出来るのだと聖書は言うのです。

道路を通行していて「止まれ」の標識に従わないことは非常に危険なことです。自分が傷つくかもしれませんし、誰かを傷つけてしまうかもしれません。一旦止まって左右を確認することが必要です。

同じように、私たちも人生の歩みの中で、突如あらわれた「止まれ」の標識にとまどうようなとき、力を捨て、心を静めて神様に心を向けてみたいと思うのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

朽ちない冠を得るために

リオデジャネイロで開催されたオリンピックが終わりました。連日の熱戦をTVで観戦・応援して寝不足だったという方もおられるのではないでしょうか。 20160827朽ちない冠を得るために

アスリートたちが目標に向かって努力を重ね、力の限りを尽くして競い合う姿には、心動かされるものがあります。選手一人一人に様々なドラマがありました。その陰には気が遠くなるほどの努力や、多くの人たちのサポートがありました。

聖書の時代にもスポーツは人々の身近なものだったようです。次のように書かれています。

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 9:24,25 新共同訳)

パウロがここで言っている「朽ちない冠」とは、終わりの時の裁きを経て、神様から与えられる永遠の命のことです。オリンピック選手よりも厳粛で、重みのあるもののために、私たち一人一人も、それぞれのレースを「走っている」のだとパウロは言うのです。

選手たちが目標を目指して真剣にトレーニングを重ねるほどに、私たちも永遠の命に向かって真っすぐに歩んでいるでしょうか。「朽ちない冠を得るために」今日という一日を、しっかりと生きたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。

休暇をいただいて、野尻湖(長野県信濃町)に行ってきました。豊かな自然の中でゆっくりと過ごして、心身

共にリフレッシュすることができました。「休む」ということについて、聖書に次のように書かれています。

イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

(新約聖書 マルコによる福音書6:31)

私たち現代人だけでなく、イエス様の弟子たちも忙しい時間を過ごしていました。イエス様は、そんな彼らに「休暇を取ってゆっくりしなさい」と勧められました。しかし、その後の箇所を読んでみると、群衆が弟子たちを追いかけ、先回りをして、弟子たちは休むことが出来ない状況になった様子が書かれています(5000人の給食の奇跡)。

弟子たちには休みが必要だったのに、なぜイエス様は休暇先にまで押し寄せてきた群衆を追い払わず、群衆のために奇跡を行われたのでしょうか。弟子たちの休暇はどうなってしまったのでしょうか。

「休みの予定を入れていても、急なことで予定通り休めなくなってしまうことがあるよ。だからこそ、休めるときにしっかり休むようにしなさい」とイエス様は弟子たちに教えようとされたのかな、と想像します。

イエス様が「あなたがただけで、人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われたように、私たちには休息が必要です。物理的にも精神的にも仕事から離れて、ゆっくりと心身の充電が出来たとき、「やるぞ!」と、新しい気持ちで目の前の事柄に取り組むことが出来るのではないでしょうか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、野尻湖畔の散歩道です。

むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。

例年よりも遅い梅雨明けで「夏はまだかな」などと思っていたことが嘘のような厳しい暑さの夏になりました。20160813むしろ、冷たいか熱いかどちらかであってほしい今週の火曜日、八王子の最高気温は38度でした(甲府はもっと暑かったでしょうか)。体調を崩さないように注意したいものです。

さて、この数日、健康のために始めた小さな取り組みがあります。それは「白湯を飲む」ということです。毎年夏は「身体にはあまりよくないんだろうなあ」と思いながらも、保冷ボトルに氷水を入れて持ち歩き、喉が渇くと冷たい水をゴクゴク飲んでいました。しかし、先日、ふとしたことから白湯のおいしさと身体へのやさしさを知り、白湯の入ったボトルを持ち歩くようになりました。白湯にはデトックス効果・ダイエット効果もあるそうで、それらの効果が現れるのを楽しみにしています。白湯を飲みながら、次の聖書の言葉が思い出されました。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

(新約聖書 ヨハネの黙示録3:15~17 新共同訳聖書)

暑い夏にあたたかい白湯、健康のために試してみませんか?そして、暑い夏に自分の信仰の温度を再確認してみてはいかがでしょうか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋