投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

テストを受ける

20年以上前の学生時代以来でしょうか?今週、本当に久しぶりにテストを受けました。

英語の研修を受けるにあたって必要なテストだったのですが、ドキドキしながら試験会場に行き、背中からは身体に悪そうな冷や汗を流しながら何とか終えることが出来ました。

英語の「テスト」を受けたのは久しぶりのことでしたが、考えてみると私たちが生きているということは、日々何らかの選びを迫られており、私たちの日常に起きる様々な出来事が「人生のテスト」と言えるのではないでしょうか?旧約聖書の詩篇には、次のように書かれています。

主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。

(旧約聖書 詩篇26:2 口語訳)

「テスト」がドキドキするのは、それを受けることによって自分がどの程度の実力なのかがはっきりする(自分の本当の姿が明らかにされる)からです。先の詩篇の言葉によれば、「神様に試される(テストされる)」ことにより、私たちは練り清められるのだということです。

もしもそうだとするならば、私のように何かのテストを受けるときだけ真剣になるのではなく、当たり前のように過ぎていく一日一日を、大切なテストに臨んでいるかのようにひたむきに生きることが必要なのではないかと考えさせられました。

愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。

(新約聖書 ペテロ第一の手紙4:12,13 口語訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

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※写真は、2012年10月 韓国再臨祈祷院にて。

私はこれを思い返す

「季節の変わり目です。皆さん体調を崩さないようにお気をつけください。」などと言いながら、数日前から喉が痛み、頭が重くなり、見事に風邪をひいてしまいました。

ここしばらくの間、非常に体調が良かったのですが、久しぶりに風邪をひいてみて、「病気で伏していることはこんなに苦しいことだったんだ」と痛感しました。

自分の体調がすぐれているとき、病や痛みの中にある人への共感度や理解度は低下していたように思います。眠りたいのに、なかなか眠れないことの不安。身体を横にして同じ姿勢で休んでいることで、腰や身体の節々が痛むことの苦痛…等など、かつて知っていたはずの痛みを忘れている自分に気づかされました。

「何日か休んでいればじきに回復する」と分かっていても、風邪の症状が強く出ているときは不安な気持ちになるものです。ましてや長い期間、病に伏している方の苦しみと不安はどれほど大きく、深いものでしょうか。

私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。

 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。

 私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。

 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

(旧約聖書 哀歌3:19~22 新改訳)

苦しみを思い返すことは辛いことです。しかし、苦しみを思い出すことで、神の恵みを心に刻み、神の救いを待ち望むことが出来るのだと聖書の言葉は教えています。OLYMPUS DIGITAL CAMERA

人間は忘れる生き物です。過去の苦しみのすべてを鮮明に覚えていたら辛すぎて生きていけなくなってしまうでしょう。しかし、苦しみを繰り返し思い出し、心に刻むことで隣人の痛みに敏感になり、また神の恵みの素晴らしさを深く理解できるのだということを覚えていたいと思うのです。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

登山道のベンチのように

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

(新約聖書 マタイによる福音書25:40 新共同訳)kimg0241

先日、久しぶりに山登りに行きました。

登山口から登山道を歩き、山頂で弁当を食べて、帰りは行きとは違うルートから下山しました。半分くらい下山すると、登山道の横に小さなスペースがあり、そこには「雨宿りシート」と書かれた手作りの木製のベンチがあります。しばらくそのベンチに座ってゆっくり身体を休めることが出来ました。

緑の木々の間から木漏れ日が射し、谷から渡って来る涼風に心身が癒されるのを感じました。

以前読んだ本に書かれていた、詩を思い出しました。

 

もしもわたしが一人の人の心を、傷心におちいらせないようにすることができるなら、

わたしの生涯は、むだではないであろう。

もしも一人の人の苦悩をやわらげてあげることができるなら、

あるいは、一人の人の苦痛をしずめてあげることができるなら、

あるいはまた、風に吹きおとされて弱りはてている一羽の駒鳥を助けて、

もとの巣の中へ、そっともどしてやることができるなら、

わたしの生涯はむだではないであろう。

(太田俊雄『矢と歌』19ページより)

一日にこのベンチを利用する人の数はそんなに多くはないでしょう。それでも人知れず、疲れた登山者にひとときの憩いを提供しているこのベンチのように、一人の人の苦痛や苦悩をそっと和らげる手助けが出来る人になりたいものだと思いました。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

どんな境遇にあっても

厳しい暑さの夏が去り、9月になると今度は秋雨前線や、台風の影響でぐずついた天候が続いています。人間というのはぜいたくなもので、暑い時には「涼しくなってほしい」と思い、こうして肌寒くなってくると「夏の暑さが恋しい」とつぶやいたりします。

昔、傘屋と草履屋へ2人の娘を嫁がせたおばあさんがいました。おばあさんはいい天気が続くと、「傘屋に嫁入りした娘が困っている」と泣き、雨が降ると「草履屋に嫁入りした娘が困っている」と泣いていました。

有名な昔話です。私たちは、「このおばあさんは愚かだな。悲観的過ぎる!もっと前向きに考えればいいのに。」と考えるのですが、しかし客観的に自分を見れば、自分自身もこのおばあさんのような状態になってしまっている、というようなことがいくらでもあるのではないかと思います。

わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

(新約聖書 ピリピ人への手紙4:11~13 口語訳)

伝道者パウロはこの手紙を投獄された牢屋の中で書きました。

「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」その人は、牢屋の中にあっても満ち足り、感謝していられる人でした。聖書を学ぶことで、聖書を通して神様とつながることで、このような確かな生き方が出来るようになればいいなあ、と思っています。

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セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※広島県三原市大和町の白竜湖の朝日です。(2004年10月撮影)。

主が共におられたので

旧約聖書・創世記に登場するヨセフは、山あり谷ありの生涯を送りました。父ヤコブの深い愛情を受けて育った少年時代から一転して、エジプトに奴隷として売られます。売られた先の家で主人に能力を認められ、家全体の管理を任せられますが、濡れ衣を着せられ、投獄されてしまいます。獄の中で夢の説き明かしをしたことで、後に王様の夢の説き明かしをすることになり、結果、エジプトの総理大臣になったヨセフは、大飢饉からエジプトの国全体を救いました。

創世記39章には、エジプトに連れて来られたヨセフが主人の家で働いた様子と、投獄された様子が描かれています。この章には、「主が共におられた」という言葉が4回出てきます。2回は、ヨセフが主人の家で働いた時のこと、そしてあとの2回はヨセフが投獄された場面です。

主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。

(旧約聖書 創世記39:2 新共同訳)

神様は、ヨセフが父の家で愛情を受けていたときだけでなく、奴隷として売られたエジプトでも、投獄された牢屋の中でも、彼と共におられたのです。

物事が順調に進む時、私たちは「神様が共にいてくださった」と感謝します。しかし、物事がうまく進んでいる20160917%e4%b8%bb%e3%81%8c%e5%85%b1%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%a7ように感じられる時だけでなく、苦しみの時、厳しい試練の時、濡れ衣を着せられて「なぜ私がこんな目に遭うのか」とつぶやきたくなる時にこそ、神様は私たちと共にいてくださるのだと、神様はヨセフの生涯を通して約束してくださっています。苦しみや悲しみの最中にあるときにも、「共にいてくださる神」が、あなたに必要な慰めと力を与えてくださいますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

牧師 伊藤 滋

※キバナコスモスと秋晴れの空(2015年10月 陵南公園近くで)。