投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

「慰め」と「励まし」

悲しみ、傷ついて力を失っている人を前にして、何もすることが出来ずに、自分の無力さに途方に暮れさせられることがしばしばあります。

作家の五木寛之さんが、その著書『大河の一滴』の中で次のように書いておられます。

孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういうときにどうするか。そばに行って無言でいるだけでもいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。深いため息をつくこともそうだ。熱伝導の法則ではないけれど、手の温もりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって拡散していくこともある。

(五木寛之『大河の一滴』258ページ)

本当は「慰め」を必要としている人を、何とかして「励まそう」と躍起になってしまい、かえって傷つけてしまうという失敗をどれほど繰り返しただろうかと思います。でも、そのような場面で本当に必要とされているのは「何かをすること」よりも「共にいること」なのかもしれません。

聖書には次のように書かれています。


 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙12:15 新共同訳)


福音書を読むと、イエス様が貧しい人・病気の人たち・社会から見放された人たちに寄り添い、彼らを深く憐れまれた様子が繰り返し記録されています。イエス様は一人ひとりを大切にされました。そして、彼らの苦しみや悲しみに目を留められて、深く憐れまれました。

日々、イエス様とつながることによって、イエス様に似た者へと作り変えていただきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161119%e6%85%b0%e3%82%81%e3%81%a8%e5%8a%b1%e3%81%be%e3%81%97

※写真は、山梨県富士河口湖町新道峠からの富士山です(11月13日撮影)。

なぜですか…?

先々週の記事に車が故障したことを書きました。あの後、車の修理は完了し、何不自由なく走りまわることが出来るようになったはず…でしたが、水曜日の夕方、車のエンジンをかけようとすると、前回と同じような不具合が発生し、エンジンがかからなくなってしまいました。しばらく時間をおくとエンジンがかかったので、何とか自力で修理工場に持っていくことが出来ました。「何で2週間の間に2回も車が故障するんだ!?」とつぶやきながら…。

「神様、なぜですか?どうしてこんなことが起きるのですか?」

古今東西を問わず、苦しみの中から人間が神様に発し続けてきた問いです。

今期、私たちの教会では旧約聖書のヨブ記を学んでいます。今週のテキストにこのような文章がありました。

私たちは…ヨブのような「良い」人がなぜこの世で苦しむのかを探り続けています。しかし、ヨブ記とほかの本との決定的な違いは、ヨブ記が苦しみについて人間的な視点に立っていないという点です。むしろ、ヨブ記は聖書なので、私たちはこの問題に関する神の視点を見ます。

(『安息日学校聖書研究ガイド ヨブ記』46ページより)


あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。

(旧約聖書 ヨブ記11:7 新共同訳聖書)


これは友人ツォアルがヨブに語った言葉です。苦しみの渦中にある人に対してはいささか手厳しい言葉ではありますが、「人間はすべてを見通すことはできないのだ」ということを教えてくれる言葉であるようにも思います。

車の故障などとは比較にならないような苦難や悲しみの中で、それでもひたむきに今日という日を生きておられる方々に、神様からの希望が注がれますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161112%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%81%a7%e3%81%99%e3%81%8b%ef%bc%9f

※今週出会った風景:山梨県北杜市大泉町付近からの八ヶ岳です。

国境を定められた神

この11月から2年間、北アジア太平洋支部が主催するCLAP(英語によるコミュニケーション能力とリーダーシップ向上のためのプログラム)に参加させて頂くことになりました。この期間、自分の任地の教会で働きながら課題を提出したり、年に2回の英語研修に参加しながら訓練を受けることになるようです。

思えば、中学生で英語の授業を受けるようになってから今まで、英語に対する苦手意識に苛まれてきました。しかし国際化が進み、私たちの身近なところにでも外国語を使う方々と接する機会が多くなってきました。もっと早く取り組めばよかったのですが、「今からでも遅くはない!」と自分に言い聞かせています。

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

(新約聖書 使徒言行録17:26,27 新共同訳)

英語の壁に打ちのめされるたびに「同じ人間なのに何で言語の違いがあるんだ!」と愚痴をこぼし、バベルの塔を造ろうとした人々を恨んできました(創世記11章参照)。しかし、先の聖句によれば、民族を作り、国境を定められたのは神であり、しかもそれは「人に神を求めさせるため」だと言うのです。

言葉が通じないというのは不便です。文化や習慣の違いから民族間の摩擦が起きることもあります。しかし、この「違い」のゆえに人が神を求め、神を見いだすことが出来るのだという、この聖書の約束は私たちにとても大切な視点を与えてくれるように思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161105%e5%9b%bd%e5%a2%83%e3%82%92%e5%ae%9a%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e7%a5%9e

※写真は、広島三育学院大和キャンパスからの朝日です(10月31日撮影)。

備えをせよ

昨日、病院の駐車場に車を入れようとしたところ、急にエンジンがかからなくなってしまいました。後ろには同じように駐車場に入ろうとする車が列を作っています。とっさにギアをニュートラルにして車を降り、必死に車を押すと、幸い車はゆっくりと動き始めました。悪戦苦闘している私を見かけた通りすがりの人たちに助けられ、なんとか駐車スペースに車を停めることができました。

実はその3日ほど前、カー用品店でオイル交換をしてもらったとき、店員さんに「無料で点検をすることが出来ますがいかがでしょうか?」と声をかけられたのですが、「時間もないし、余計な出費になるようなメンテナンスを勧められるからいいや」と思い、「今日は大丈夫です」と断ったことが思い出されました。

先週は健康診断を受けましたが、自動車も自分の身体も、いつ何があるか分からないものだということ、そしてその時のための備えをすることが大切だと痛感させられました。

聖書にこのような言葉があります。

イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ。

(旧約聖書 アモス書4:12 新共同訳)

いつ起きるか分からない、しかしいつか必ず起きることのための備えをするように、聖書は私たちに呼びかけています。

10月29日の午後、八王子教会では、終活セミナー「私の葬儀の備え」を持ちます。時に私たちは「死」をタブー視してしまいます。しかし、神様は私たち人間の人生の終末というとても大切な出来事を通して、ご自身の栄光をあらわしてくださるのです。あなたは備えが出来ていますか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

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※3年前にも車が故障したことがありました。2013年4月撮影。

人の生くるはパンのみに由るにあらず

お腹がペコペコで帰宅した時に食卓に用意されている、熱々のご飯。

「近頃野菜不足だな~」と感じていた時に食べる、新鮮な野菜サラダ。

身も心も冷え切った時に食べる、具だくさんのみそ汁。

思わず「ぼくの身体が欲していたのはこれです!」と声をあげたくなる、嬉しい瞬間です。

聖書に「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)と書かれていますが、食べ物だけでなく、その時の自分に必要な言葉が聖書から与えられた時、思わず「ぼくの魂が欲していたのはこれです!」と声をあげたくなる、嬉しい瞬間です。 20161022%e4%ba%ba%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8f%e3%82%8b%e3%81%af%e3%83%91%e3%83%b3%e3%81%ae%e3%81%bf%e3%81%ab%e7%94%b1%e3%82%8b%e3%81%ab%e3%81%82%e3%82%89%e3%81%9a

不安でどうしようもない気持ちのときに与えられる、あたたかい励ましの言葉。

自分で自分の過ちに気付けていないようなときに与えられる、鋭い譴責の言葉。

ボロボロに落ち込んで立ち上がる力を失っている時には、心の燃料タンクに燃料が注がれるような力のある言葉が聖書から与えられるという経験を、これまで何度もしてきました。

「神様は私の心に必要なものを、私自身よりもご存じなんだなあ」と、嬉しくも厳粛な思いにさせられます。


神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。

(新約聖書 ヘブル4:12,13 口語訳)


「食欲の秋」そして「読書の秋」です。「命のパン」と言われる聖書の言葉に親しんでみませんか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、信仰の大先輩から譲り受けた文語訳聖書です。