投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

主は驚かれた

主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。

(旧約聖書 イザヤ59:16 新改訳)


神様が「とりなす人がいない」ことに驚かれた、とここに書かれています。「とりなす」という言葉を辞書で調べると「ものごとの中に立って、仲直りをさせる。仲裁する。」と書かれています。人と人、そして神と人の間に立って「とりなす」人が必要とされています。世の終わりの徴について、マタイによる福音書24章には「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(12節・新共同訳)と書かれていますが、いま身の周りをそして世界中を見渡しても、その通りの状況が起きていることを強く感じさせられます。

私たちの教会では、4月15日(土)~22日(土)まで、春の祈祷週を持ちます。毎日集まって聖書の言葉を学び、心を合わせて祈りをささげる1週間です。私たちの周りには(そして私自身も)、「とりなし」を必要としている人がたくさんいます。重荷を抱えている方、病に苦しんでいる方、神様の救いを必要としている方々のために、心を砕いて祈り続ける者になりたいと願っています。

春の祈祷週読み物(『信仰のリバイバルを求めて』マーク・フィンレー)に書かれていた次の言葉をご紹介いたします。

「この世が考える以上に、多くのことが祈りによって成し遂げられる」アルフレッド・ロード・テニスン

「私たちが祈らないのは多忙のゆえである。したがって、力がないのも多忙のゆえである。活動は多いが、業績は少ない。奉仕は多いが、回心は少ない。組織は多いが、結果は少ない」R・A・トーレー

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

神様からの手紙

電子メールやスマートフォンのアプリなどが普及して、手紙を書いたり受け取ったりすることが少なくなってきました。確かに電子メールは遠くに離れた人と、瞬時に情報をやりとり出来て便利なのですが、そんな時代だからこそ手紙の価値や重みが一層増しているのではないかと思います。

これまでにどんな手紙を書き、受け取って来たでしょうか?

心励まされる手紙、ラブレター、胃がキリキリと痛くなるようなお叱りの手紙…。様々な種類の手紙があります。どんな手紙であれ、直筆で書かれた手紙には、書き手の思いがずっしりと込められています。聖書には次のように書かれています。


 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙2 3:2,3 新共同訳)


「神様からのすべての人たちへの手紙」=「あなたがた(クリスチャン)」だと聖書は言うのです。誰かが私を見ることで「神様ってこんなもんか」って見切られてしまったら?と思うと不安になります。しかし、神様が私を「手紙」として用いてくださるというのは身に余る光栄だとも感じます。神様が書かれた手紙であるならば、文責は神様にあります。

春になって植物が一斉に目を覚ましたかのように花を咲かせ始めました。花々が春のおとずれを知らせる神様からの手紙であるように、私たちも誰かに神様の愛とあたたかさを伝える手紙でありたいと願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

助けてください!

新年度がスタートしようとしています。「春は旅立ちの季節」と頭では理解していながら、先週までここにいた人が新しい場所に旅立ち、また他の人からも「引っ越しました」と連絡が来たりすると「いよいよ新しい年度が始まるんだな~」と実感させられます。

今期(4月~6月)、私たちの教会では安息日学校で「ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱ」を学びます。今週は、これらの手紙を書いたペトロがどんな人物だったのかを振り返りました。ペトロが嵐の湖で、水の上を歩いてイエス様のもとへ行こうとしました。しかし、強い風に気づいた彼はイエス様を見失い、溺れそうになります。その場面について、このような説明がされていました。

しかしイエスは、ペトロが無力感の中で、「主よ、助けてください」(マタイ14:30)と叫ぶ以外に何もできない状態になることをお許しになりました。…私たちは主の力を信じ、強い信仰で物事を始めることができます。が、恐ろしい状況がやって来るとき、イエスがペトロに言われた言葉を思い出さねばなりません。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14:31)。(安息日学校聖書研究ガイド『わたしの羊を飼いなさい』7ページより)

何かに向かって新しい気持ちで出発をするとき、逆風や荒波に襲われることがしばしばあります。人生に浮き沈みは付きものです。しかし私たちは人生の嵐の中でこそ、心の底から「主よ、助けてください!」と叫ぶことの大切さを学ぶことができるのかもしれません。新しい場所で新しい出発をする方、あるいはこれまでと同じ場所でこの4月を迎える方にも、イエス様の守りとお導きが豊かにありますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※開花間近の八王子市内片倉城址公園の桜です。

卒業

今週、街を歩いていると袴姿の女子大生を見かけました。「卒業式シーズンなんだなあ」と実感しました。


天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、

(旧約聖書 伝道の書3:1,2 口語訳)


「卒業」とは、「植えたものを抜く」ような出来事かもしれません。その場所に植えられて、定められた時間の中でそこにしっかりと根を下ろして成長して来た人が、そこでのすべての学びを終えて次のステップに進んで行く。それはもちろんおめでたいことではあるのですが、不安や寂しさなどの痛みが伴うものでもあります。 

いままで自分が慣れ親しんだ場所から巣立つ当人にとっては期待と不安の入り混じる瞬間であり、またその人を送り出し、見送る人たちにとっても、いままでそこにいた人を送り出す寂しさと戦わなければなりません。

厳しい冬の寒さが終わり、様々な生き物が活動を開始し始めるこの季節に私たちはこの節目の時間を迎えます。抜かれた植物は次の場所で根を張り、さらに成長して実を実らせるでしょう。そして抜かれた場所にまた新しい芽が顔を出します。出会いと別れが行き交うこの季節に、神様のこの言葉を約束として覚えたいと思います。


 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

(同 伝道の書3:11)


※写真は東京三育小学校の卒業式と、相模原市緑区の小原宿付近の風景です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

最も落胆しているときが…。

色々なことを思い煩っているうちに眠れなくなり、苦しんでいた夜、知らない人から一通のメールが届きました。外国からのメールだったので「迷惑メールかな?」と思ったのですが、件名は“Praying for you”とありました。読んでみてビックリしました。

 1月の全国牧師会のときに、世界総会のスタッフの方から「世界総会では日本の牧師たちのために毎日祈っています。より気持ちを込めて祈るために皆さんの写真を撮らせて下さい。そして祈りのリクエストのカードを出してください。」という呼びかけがあったのを思い出しました。このメールは世界総会で働く一人の牧師からのものでした。

自分が苦しんでいるちょうどそのときに「あなたのために毎日祈っているよ」というメールを受け取ったことで、私は「神様は私のことを覚えていてくださるのだ」と強く感じることが出来ました。そのメールにとても励まされたことを返信すると、翌日もう一度返信がありました。そこには次の文章が添えられており、さらに励まされました。


 神の導きのみ手を求めて手を差し伸べているすべての者にとって、最も落胆しているときが、神の助けが一番近い時である。彼らは自分たちの道の一番暗かったところを感謝をもってふりかえるであろう。「主は、信心深い者を試練の中から救い出」される(Ⅱペテロ2:9)。誘惑のたびに、試みのたびに、主はそこから彼らを、もっと固い信仰、もっと豊かな経験をもって導き出される。

(エレン・ホワイト『各時代の希望』58章より)


私は人が誰かのために祈ることの力と意義を信じます。一度も会ったことのない人であっても、その人のために心から神様に祈りをささげるときに、神様は私たちが思いもよらないような方法とタイミングでその祈りに応えてくださるのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は高尾梅郷、木下沢梅林の梅の花です。