投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

ペストのような存在で…。

この花をご存じでしょうか?私は最近までこの花の名前を知らなかったのですが、「ナガミヒナゲシ」という外来植物だそうです。確かにここ数年、この花を目にすることが増えて来ているように感じます。一つの実から1600粒もの種が生まれ、根と葉からは周囲の植物の生育を強く阻害する物質を生みだすことなどから在来植物への影響が心配されているそうです。

今までなかったものが俄かに存在感を増してくると、既存の勢力は危機感を覚えるものです。新約聖書の中で、使徒パウロは次のように言われています。


この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。

(新約聖書 使徒行伝24:5 新改訳)


イエス様と、イエス様に従った弟子たちには驚くような影響力がありました。使徒パウロはローマ帝国の権力者たちに「ペストのような存在」と恐れられました。イエス様は天国を一粒の種にたとえて人々に教えられました。イエス様が蒔かれた種は、地に落ちて、後に芽を出して何百倍・何千倍にも増えて拡がっていきました。私たちはいま、この聖書の言葉にそのような力があることを心から信じているでしょうか。私たちは弱い存在ですが、この言葉に力づけられて、神様の素晴らしさを周りの方にお伝えしていきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

人の為

弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

(新約聖書 ヨハネによる福音書12:4~6 新共同訳)


人はしばしば、自分の心の奥に本心を包み隠しながら言います。「私はあなたのためを思って言ってるんだ!」

「偽」という漢字を分解すると「人」「為」となります。私たちが何かにこだわって「あなた(人)の為(ため)」と声高に叫ぶとき、自分自身の心の中に「偽」という漢字が入り込んではいないだろうかと自問してみる必要があるのかもしれません。

イエス様に高価な香油をささげたマリヤにイスカリオテのユダが言いました。「なぜこの香油を売って貧しい人にほどこさなかったのか?」一見もっともらしい、「貧しい人たちの為に」という彼の言葉の裏側には、自分の不正をごまかそうとする計算高さと、金銭に対して貪欲さが隠されていました。

イエス様は私たちの心の奥に秘められた本心をご存じです。小さくても真心からの行いや言葉を神様のために、人のためにささげる者でありたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※陣馬山登山道からのお茶畑と富士山(撮影:2015年5月11日)。

すべて重荷を負うて苦労している者は

ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか?ニュースを見ると「渋滞予想本日夕方30キロ」などと報じられておりますが、せっかくの連休にリフレッシュするために出かけても、混雑や渋滞で疲れてしまうことにやりきれなさを感じます。イエス様の有名な言葉です。


 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

(新約聖書 マタイによる福音書11:28~30 口語訳)


私たちが生きていくということは、重荷を背負うことです。どんな人であっても重荷と無縁の人生を送ることは出来ません。重荷を降ろしたくて、あるいは忘れたくてどこかに出かけようとしても、そのことでさらに重荷が増えてしまうような人生を私たちは生きています。しかし、もしもそうだとするなら、そのような人生の中で「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と呼びかけてくださる方を知っている人は幸いです。その方のもとに行くならば「休みが与えられる」(29節)からです。

毎朝聖書を読んで静かに祈る時間を持ち、毎週安息日には教会に集うことが、重荷を負って忙しい毎日を過ごす私たちをどれほど回復させてくれているでしょうか。他の場所にではなく、この方のもとに安らぎを求めて生きる者でありたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

「大声で言った」

今週月曜日から木曜日まで全国の牧師たちが集まり、研修を受けました。その中で「何を/どのように/なぜ伝えるのか?」という講義がありました。その内容から少しご紹介させていただきます。

わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」

(新約聖書 ヨハネの黙示録14:6,7 新共同訳)

これは私たちセブンスデー・アドベンチスト教会が特に大切にしている、三天使のメッセージの中の最初の天使のメッセージです。この天使は大切なメッセージを文字通り世界中に住むすべての人たちに広く伝えるために「大声で」叫びました。 

重要で緊急な知らせを、遠くにいる人たちにまで確実に伝えたいとき、私たちの声は自然に大きくなります。今から約150年前、私たちの教会の信仰の先輩たちは、「キリストの再臨が近い!」という重要なメッセージを当時の最先端のメディアだった印刷物を使って大々的に宣べ伝えました。

最近、私たちの教会のホームページを閲覧された方々からの問い合わせが少しずつ増えて来ています。この時代、私たちは神様から委ねられた大切なメッセージを広く宣べ伝えるのに、このインターネットという方法をもっと研究・活用する必要があると感じました。

あなたが「大声で」宣べ伝えたいことは何ですか?そして、それをどのような方法で発信することができるでしょうか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

信仰のリバイバルをめざして

今週、私たちの教会では春の祈祷週がもたれました。毎日色々な場所に集まって祈り、信仰のリバイバル(復活・再生)について学びました。人間には感情のアップダウンがあります。何かに熱心に取り組んでいたかと思えば、熱が冷めて投げ出してしまうことがあります。情熱的な付き合いをしていたカップルが、疎遠になってしまうこともあります。私たちと神様の関係も、信仰に入ったとき、内に熱く燃えるものがあったはずなのに、今ではすっかりマンネリ化してしまっている…。と失望させられることがしばしばあります。祈祷週の読み物に、次のような文章がありました。

「リバイバルとは、霊的生命の再生、理性と心の能力の向上、霊的死からの復活を意味する」(『Review and Herald』Feb 25, 1902)。リバイバルは、単にそれについて読むときに起こるのではなく、聖書の教えるリバイバルの要素を実践するときに起こります。新約聖書の教会は祈りと聖書研究、証を通して、イエスとの生きた経験を持ち続けました。

(『信仰のリバイバルをめざして』20ページ)

マンネリ化し、命を失ってしまったものが、もう一度息を吹き返すことが出来るのでしょうか?

預言者エゼキエルが枯れた骨で満ちた谷に立たされたとき、神様から問われました。「これらの骨は生き返ることができるか?」彼は「主よ、あなただけがご存じです」と答えました。それに対する神様の言葉は次のようなものでした。

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」

(旧約聖書 エゼキエル37:1~5 新共同訳)

神の言葉によって、命の息が吹きこまれるとき、命を失っていたものが生き返る。それが神様の約束です。命の言葉である聖書から、日々神様の命を受け取り続けたいと願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋